綾部孝一のプロフィール
日立市出身。5歳から音楽教室に通い7歳でピアノを始める。 茨城キリスト教学園高等学校1年次から東京にて武蔵野音楽大学講師の小島久里に師事し、同大学 ピアノ科卒業。(中学一級、高等学校二級普通免許状取得)
ウィーン国立音楽大学にて、ピアノをE・ムラチェック、室内楽をW・パンホーファー、 チェンバロをI・アールグリムに師事し、同大学ピアノ演奏科をディプロマ取得卒業。
その後、ウィーン在住のスペイン人ピアニスト、ホセ・フランシスコ・アロンソの許で2年間の 研鑽を積みながら、ヨーロッパ各地でのマスタークラスを受講。(J・スリコフスキー、P・ギリロフ、O・マイセンベルク、L・ブルムベルク、他) ウィーンにてピアニスト、チェンバリストとして演奏活動の後帰国。
ヤマハ音楽振興会(東京・目黒)にて、ピアノプレーヤのレコーディングに従事し9枚のアルバムが 発売となる。
ソリスト、室内楽奏者、合唱団伴奏者として演奏活動を活発に行い、海外でも定期的に演奏する。 アメリカで4回、スペインで3回のピアノリサイタル開催。 1996、97、98年にはウィーンにて、恩師イゾルデ・アールグリム教授追悼チェンバロコンサートに出演。 2000年には、東京文化会館に於けるミレニアム記念・ヘンデル作曲「救世主」全曲演奏会にチェンバロ奏者として参加。 高崎芸術短期大学、創造学園大学講師(ピアノ科、チェンバロ科)として後進の指導に当たる。 30歳代後半から始めた「ベルギー館コンサート」は毎回好評に続き、現在33回となる。
ピアノ音楽誌
ショパン 1994年8月
ショパン 1996年12月
アールグリム先生の逝去を伝えるウィーンの新聞記事
“流行の火付け役”となった愛らしい御婦人
イソルデ・アールグリム、女流チェンバロ奏者の大御所がウィーンで亡くなった。
彼女の切り開いた分野は、音楽界全体に計り知れない業績を残した。
“チェンバロと言えばアールグリム“、この言い回しは長い間この国では異論の無い有効性を持っていた。
当時は、古い大家の作品をどのように歴史的に正しく演奏出来るかという疑問に取り組む事は、まだ全く当たり前ではなかった。
イソルデ・アールグリムが演奏活動を始めた当初、古典の作品はもっぱら近代的なピアノで演奏され、その作品の歴史的考察などは疎かにされていた。
アールグリム自身も“平均律クラヴィーア曲集”の初めての演奏は当然ながらピアノで行った。
ともかくも、彼女はフランツ・シュミットとエミール・フォン・ザウアーの高弟として最高のロマン派音楽の伝統を受け継いだ。
それは全く彼女の個人的な事情であったのだが、とりわけ歴史的な楽器の大収集家との結婚が彼女を本来の活動領域へと導いた。
すでにアカデミー在学中から、彼女はその並外れた記憶力で教授陣を驚かせていた。
彼女がチェンバロに転向した際には、この愛らしい女性がその頭と指でバッハの鍵盤楽器作品の全曲を把握していた事に世間は驚いた。
彼女の偉大な業績:チェンバロでも多様で生き生きしたニュアンスに富んだ演奏が可能であると証明した事。
チェンバロの機能が、洗練された微妙な音色の陰影を引き出す可能性において現代のピアノより劣っている、と思われたにもかかわらず。
音楽の楽句から正しく雄弁さを引き出すことが出来る人は、チェンバロにおいても語り、歌うことが出来る。
数知れない生徒達がこの恩恵にあずかった。
リヒャルト・シュトラウスはアールグリムの芸術を高く評価し、自らのアレンジによるクープランの「ダンス組曲」を彼女に献呈した。
“専門家と愛好家の為の音楽会”を開催し、大衆の啓蒙に努めた。
今日、バロック音楽祭が大成功となるならば、彼女の人格のお陰でもある。
彼女の残した業績無しには考えられないであろう。
月刊誌
スペースマガジン・インタビュー記事 1988年7月
茨城朝日 1986年12月
コメント
アールグリム先生コメント リサイタル(1990年10月17日)に寄せて
スペースマガジン・長峰先生コメント 1998年9月